SAKURAの自己紹介

SAKURAは関西生まれですが18歳になった頃から長年東京、首都圏で暮らしていました。それで日本語については関西弁と東京言葉のバイリンガルですが、同じような人は芸能人を見てもわかるようにいっぱいいるのでこんなのは何の自慢にもなりません。

思えば就職時から、というか学生の頃からずっこけていました。誰もが名前を知る一応の有名大学法学部に入学したものの、授業について行けず(ここですでにミスマッチしてました)1年余分に学生時代を過ごした後、なんとか就職できた仕事が『将来性抜群』のIT技術者見習い(当時はITなどという言葉は無く、プログラマー・SE見習いと言っていました)でした。

この就職がまたミスマッチでした。『IT技術者の卵』、こう言えば聞こえはいいのですが実態は長時間労働+休日不定なブラックな職場でした。
このままでは青春を楽しむこともできないし第一、初心者同然の人間にいきなりアセンブリ言語とかやらされ、納期納期と言われて精神病んで病気になりかけてたので、6ヶ月目の終わりに強引に退職、今のように退職代行してくれるサービスの存在も無く、退職時は針のむしろでした。

その後すぐに別の会社に入ったのがまたハズレ、詳しいことを書いても仕方がないですが数人で運営している極零細企業で上層部に嫌われることになり、1年も経たず追い出されるように退職。

それから実に半年以上になる失業・求職期間でした。ちょぼちょぼのアルバイトと少ない失業手当で食いつなぎ、秋から冬の季節で寒さもあって、なんとも心が折れる時期でありました。

しかし最後の最後で求人雑誌(当時はもちろんネットなどありません)を見て応募した一部上場会社、の子会社に就職できました。
家賃と食費でギリギリの生活で最後に拾われた幸運、と思いきや、なんと営業の第一線に放り込まれました。ミッションは対個人ではなく、米国製オフィス用コンピュータを企業相手に売り込む仕事。わたしは試験的採用人員だったのです。なるほど女性活用をする企業が注目される時代でもありました。

今思うと期待されていたのだろうとは思いますが、これもまたまたミスマッチでした・・・。良かったのは外勤が多く、今のようにGPS管理もされないので結構自由な時間を享受していました。営業に運転免許は必須、と自己納得して自由な時間を駆使しやっと運転免許を取ったのもこの時期でした。

紅一点の売れない営業として在籍、クビになったら・・・と考え悩みながら過ごす日々でしたが景気だけはいい時代だったので社内異動で内勤になって救われました。

そのまま数年が過ぎ、給料も在職年数が長くなるにつれて上昇、『会社員貴族』に近い暮らしを1Kのエアコンも付けてない部屋で満喫していましたが突如景気崩壊、またどん底です。

会社閉鎖に向けてまっしぐらの中、自主退職。本格的に肩たたきが始まるまで居たほうが賢かったと言われるかもしれませんが、目的がありました。

実はSAKURAは英語は不思議と中学時代から勉強はしなくてもそこそこの点は取れていました。それもあって大学受験も難易度の高いところにチャレンジが可能だったのです。ですが、英語は大嫌いでとくに会話はまるでダメ。言葉ができなくて怖いので英語をしゃべる国には絶対行きたくないと思っていたのです。いっとき丸の内外資系ガールに憧れていたのですが、それは外資系であっても日本にある会社で自分のいる環境よりずっとオシャレだから、でした。

一方その反動で英語をしゃべらないスペインに住むことに憧れを持っていました。その頃から自分では気づかないにせよ日本という環境に居づらさを感じていたのかもしれません。
そしてスペイン語も『会社員貴族』時代にまさに『貴族のお遊び』で個人レッスン等を使って習い始めていて、やはり実際に使われている国に住んでみたい、とスペインに語学留学することに決めていたのでした。

志がかなってスペインに渡り4年ほど「金欠語学生生活」を送りました。それで、就職先が見つかればいいなと思っていたのですが、この甘い考えも結局ミスマッチだったのかも知れません。現実の苦い味に敗退・撤退を余儀なくされ、帰国。

その後首都圏での貧民派遣社員就業を経て一瞬旅行に行ったフランスで現ダンナと知り合い何故か移住。

悠長に専業主婦などできない身分なので早く仕事を探さなくちゃ、と言っても来たばかりでフランス語は日本で独習した程度、『フランス語があまりできないフランスの学歴無し外国人』という仕事探しの重いハンデがあるのでパリの日系企業に履歴書を送りまくった結果、ラッキーにも面接即採用、夫婦共にパリに就職&転職で引っ越しました。

若くもない、フランスに留学経験も無く居住経験も浅い地方在住者に職をくれた当時の上司には今でも本当に感謝しています。しかし、TGV(フランスの新幹線)で面接に来るような遠方からの応募者はおそらく前代未聞だったでしょうね。

勤務先の社内環境はほぼ<東京の会社>、数年後の組織体制の改造で遭遇したお局や無能上司(これらはどこにでも居ますよね)などとの軋轢は日本の会社の日常とほとんど同じでしたがサラリーのレベルは現地基準、給料的にはまるで派遣社員を長期に渡って続けているような状態、唯一の慰めはタダで眺められる職場近くのパリの一等地の風景でした。

パリに居るから素敵なレストランや文化的にハイソな暮らしというわけでも無かったのですが、やはりパリはフォトジェニックな街でした。人間的には在住日本人一般を含めてそれほど好きになることもないところでしたが、この街の歴史を感じさせるモニュメント類はやはり壮麗でした。街中で撮った写真はこのブログ内でも時々使っています。腐ってもパリ、でした。

住まいはパリ市内は予算的に不可能なのでパリ郊外にアパートを借りて住んでいました。3度引っ越したのですが最後に住んだ街は住心地良くて10年以上もいました。ボロいけど南向きの日当たりだけはいいお部屋でした。今でもその街が懐かしいです。

住まいの近くにあった二色桜。毎年楽しんでいました。©selectfr.eu

時は流れ、ダンナの定年退職+ちょうど辞めようと思った頃、パリの連続テロ事件が起こったのですが、そこでパリの会社員生活にサヨナラ、現在は南仏の果ての田舎都市在住です。

この地は大気汚染が少なく雨の少ない気候とパリに比べて格段に良い食材の質を除くとあまりいいことはないのですが、これは仕方無いですねえ・・・。

最後まで読んでいただきありがとうございました。
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