ブログの管理人について

★パリ近郊の住まいの近所にあった街路樹の二色桜。
接木による白とピンクの二色の花が毎年咲いていました。

管理人sakuraについて

18歳まで関西で生活

sakuraは関西生まれです。それで幼少の頃はおっとりぽっとりの阪神間の
関西弁使いでした。
住んでいた地域の中学が荒れていたために親が無理してでも私立の女子中高
に進学することに決めたので中学入試を体験しました。高校入試が無いのを
幸いに中学から高1まではほとんど勉強せず怠けて暮らしていました。勉強
は定期試験直前しかしなかったのですが、この様に一般的に勉強してないので
今でも物理化学・数学系は苦手、というかよくわかりません・・・・・。

高校2年の時このままゆくと付属の短大ぐらいしか受け入れ先は無いものと
気づき、そろそろミッション系女子校の雰囲気にも飽き飽きしていたので
入試科目3点セットのみ猛勉を開始して憧れの大学に合格、大学のネーム
バリューをもって親を説き伏せ関西から上京しました。

なんで関東(=東京)に行くの?と当時仲良しだったクラスメート達に
言われました。昔は今より関東関西の差が強くて、まるで別天地、外国みた
いに思われていたのですね。私としてはそれまで6年も過ごした女子校の
雰囲気から逃れたかったし、とにかく新しい世界が見たかったのですが。

<国内移住>、東京での学生生活

18歳で関東に移住したため私は海外に住む今も日本語は標準アクセント、
そして東京で働いていたんですよ、と言うと関東出身と思われてしまう
のですが関西弁との<日本語バイリンガル>です。友達が関西弁を真似
する時よくネイティブチェックをしてあげていました。

4月の入学当時は司法試験に向けて頑張るはずでしたが、たった3ヶ月で
マス授業とやる気の無い教授、面白くもない法律書の解読に失望して学業
には挫折してしまいました。思えばおしゃれや遊びが大好きな若い女の子に
法律の勉強なんて無理でした。これが10年遅かったらまた違っていたかも
知れませんね・・・。
代わりに法律とは全く縁のないクラブ活動の部室に入りびたり、生活費補助
のバイトに明け暮れていました。日本の文系の大学は昔から入ったら最後
出るのは簡単、そして法学部は卒業論文が無いこともあってドイツ語や英語
の出席を取る科目が無い3年以降には学部のある建物へはほとんど足を踏み入
れませんでした。
当然成績は振るわないのでやがて迎えた就職戦線では失敗続きで3ヶ月以上に
渡る就職活動の後やっとのことで入社が決まったのは零細ソフトウエアハウス、
当時(今も)需要は恒久的にあるので将来性がある仕事として入社時は結構
やる気はあったのですが、しかしここは下請け会社の常でもあるブラックな風
が吹きまくる業界と会社でした。

浮き沈みたっぷりの東京の正社員時代

当時からこの業界は休み無きタコ部屋労働を日常的に行う会社が非常に多く
ここも例外ではありませんでした。6ヶ月で精神的にも参って逃げ出しその後
ワンステップ置いてまた転職、ラッキーにも某大手企業の系列IT会社に入る事
が出来たのです。ここでは待遇等は親会社とほぼ同じで結構恵まれていました。

しかしまさかと思いましたが最初はなんと営業に回されたのです。男性が多い
法学部出身なので<男らしい>とか思われたのでしょうか。
20代半ばの女の子には企業相手のシステムとコンピュータはちょっと売れませ
んでしたが、ここで営業トークや電話、外回りのマナーを身につけることが
出来たのは後々の栄養になりました。

それでも2年もしないうちに<出来ない営業>を見限られ、内勤の広報部門に
移動になったのですが、その時は<グローバル化>を目標にする会社の方針
とは裏腹に外国大嫌い人間、特に英会話が嫌なので海外旅行なんて誰が行く
もんか、という超ドメスティック人間でした。同僚が休暇にハワイに行ったり
タイやインドに旅行した話を聞いても単に”ふーん、そうなんだ”、
また同じ部署の男性がヨーロッパやアメリカに出張出来てもちっとも羨ましい
とは思いませんでした、”なんか怖いじゃん、そりゃ会社経費でいいホテルとか
には泊まれるけど”とか考えてたのです、今思えば嘘みたいなのですが。

当時は年功序列がまだ生きていた時代だったので毎年順調に昇給、一応広報
関係の部署でしたが担当している業務も何年も経ってマンネリ化していたの
にもかかわらずボーナスも満足のいく額でのんびり会社員ライフを謳歌して
いました。

しかし異動で新しい上司が来てから最悪になったのです。実はこの上司は
数年前1年だけ仕えたことがあるのですが2度目になると以前にもまして
自分に寛大で他人にウルサイ最低のタイプの上役になったのです。(うーん、
どこかの総理大臣と同じですかねえ・・・。)

この振る舞いはおそらくバブル時代の産物でもあったのでしょうか。楽々と
有利な位置に居座る、当時は景気最高でそれが可能でした。そういえば同僚が
自分のアイデアがこの上司に盗まれたと怒っていた事件もありました。
とにかくパワハラづくめの数年間が始まったのです。

あまりの酷さに会社を辞めたくて仕方がなかったのですが、生活のこともあり
ぱっと辞められないので気晴らしに嫌いな英語ではなくスペイン語を勉強して
いました。会社は英語が出来て英会話が堪能な人を優遇していたのでそんな
風潮に反発したこともあります。

ある日とうとうこの理不尽な上司と口論の結果、気のそぐわない異動の話を
持ちかけられたのをきっかけに退職を切り出しました。都合の良いことに
この直前にバブルが崩壊していて、その後会社は業績悪化で突如転落の道を
まっしぐらに落ちていったのでした。
それで私が辞めた時点ではついに所属部署が閉鎖、全社員対象に希望退職募集も
始まるぐらいでしたので業務引き継ぎも無し。引き止められもしませんでした。

スペインから泣く泣く出戻り

そして辞めて自由になった後かねてから希望していたスペインでの長期滞在を
実行したのです。
初めは国際友好ボランティア研修生としてバルセロナへ派遣され無給日本語教師
を約9ヶ月の間数校で行った後、語学留学生として約3年間滞在したのですが
現地は慢性不況でこれといって特技のない外人には就職が無くその上資金が
尽き果て日本に帰国、大敗退でした。

関西では無く仕事のチャンスの多い東京に戻りましたが折しも世紀末大不況と
年齢ハンデのために正社員の職が見つからず派遣で日銭を稼ぐはめになり、
スペイン語どころか外国とは無関係な仕事ばかりを生活のため手当たり次第
に請け負う生活が続き、いろんな派遣イジメにも遭いました。

何故かフランスへ、そしてパリでの生活・・・。

そんな生活が続く中、ヨーロッパが恋しくなり、ある夏フランスに貧乏旅行
したのですがその時現在のダンナ様と知り合い、21世紀になってすぐ日本を
離れて今度はフランスに移住したのです。

初めてのフランス生活でしたがフランス語はスペイン語の応用で行けると
いう面もありますのでお金がかかる語学学校には行かず最低限自分の生活費と
社会保険の権利を得るために主に日系企業をターゲットに就職活動を始め、
3.4ヶ月の間色々な会社に履歴書を送りまくったのですが日系情報誌の求人
広告を見て応募したパリの日系企業に採用され、ついでにダンナも転職出来た
ので夫婦でパリに転居したのでした。
住まいはパリ市内に住むのは予算的に無理なのでパリ郊外にアパートを借りて
住んでいました。3度引っ越したのですが最後に住んだ街は住心地良くて10年
以上もいました。今でもその街が懐かしいです。

パリでの勤務先の社内環境はほぼ<東京の会社>、どこにでもよく居るお局や
無能上司などとの軋轢は日本の会社の日常とほとんど同じでしたがお給料のレベル
は現地基準なので金銭的にはまるで派遣社員を例外的に長期に渡って続けているよ
うな状態、唯一の慰めはタダで眺められる職場近くのパリの一等地の風景でした。
街中で撮った写真はこのブログ内でも時々使っています。

今、フランスの田舎都市にて

そしておよそ13年半のパリ会社員生活の後、ダンナの定年退職を機に会社員生活
にはサヨナラを告げて南仏の最果てのこの田舎都市に移住、この地は大気汚染が
少なく雨の少ない気候とパリに比べて格段に良い食材の質を除くとあまりいい
ことはないのですが、これは仕方無いですねえ・・・。
パリは腐ってもパリ、でした。


きれいでおしゃれで高級なフランスではない<フランスものブログ>ですが
日本人一般にはあまり知られていない情報も織り交ぜていますのでよろし
ければ時々ご訪問ください。

★晩婚+家計にそれほど余裕がなかったため子無しの二人暮らしです。
家族の一員だった天然わがままイケメンダックスは2017年のハロウィーンの夜まだ10歳で
1人で旅立ってしまいました